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大正05年卒
田中 敬孝

戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。広島中在学中の1914年(大正4年)蹴球部創部に伴い入部、レフトウィングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙も同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。1年下に慶應義塾体育会ソッカー部創設者の深山静夫がいる。広島高等師範に進学、サッカー部の主将を務めた。1919年1月26日、第一次世界大戦後、広島湾の似島検疫所内に収容されたドイツ人捕虜との交流の一環として、広島高師グランドでサッカーの試合が行われ、広島高師チームも大敗したがドイツ人の技術の高さに驚いた田中は、陸軍の許可を受けて毎日曜日、似島に渡ってドイツ人捕虜からサッカーを教わったという。1920年卒業と同時に母校広島中学の英語教師として着任し、サッカー部を指導。関西中等大会に3年連続で決勝に進出し、1921年には全国中等学校蹴球選手権大会を4連覇中だった御影師範を下すなど、ドイツ人譲りの田中の指導は評判となって関西各地からの指導依頼が相次ぐほどであった。ただ在職2年で教職を退き、京大経済学部に転じているあたりの情報量は乏しく、晩年は広島貿易取締役会長などを務めるかたわら、同窓生相互の親睦と交流を図る場として昭和36年発足した月例のミニ同窓会「二木会」の常連であるばかりか、昭和52年の『広島一中国泰寺高百年史』編集時には編集委員長を務めるなど鯉城同窓会振興の功労者としても特筆しておきたい。 ちなみに、『百年史』225頁に「トンネル教場の思いで」、256頁に「万里の長城」、276頁に「紫の旗」の3編のコラムを執筆している。 1985年(昭和60年)3月6日没

広島一中サッカー部創立時に入部。第一高等学校卒、東京帝国大学卒​。医師(小児科医)、医学博士。サッカー選手、サッカー指導者でもあり、第4代日本 サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。​藍綬褒章、勲三等瑞宝章、ナイト勲章(大英帝国勲章)を受章。 1983年(昭和58年)没

​野津 譲
大正06年卒
​深山 静夫

慶応義塾体育会ソッカー部創始者。​1923年第6回極東選手権日本代表の関西倶楽部からディフェンダーとして国際Aマッチ2試合(フィリピン、中華民国)フル出場。その後広島に帰り、鯉城蹴球団創設に参加。鯉城蹴球団の中心的選手として1924年と1925年の明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回と第5回天皇杯全日本サッカー選手権大会)を2連覇。1928年進徳高女教員となり、大日本蹴球協会(日本サッカー協会)中国支部代表者として長年​運営にあたった。

大正09年卒
岡野 良定

京都大学卒業。三菱重工業入社。応召し、終戦後シベリア抑留を経て1948年復員。戦後は三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)を創設し初代監督を務めた。プロチーム発足にも関わり、1992年から2001年まで浦和レッズ取締役会長、相談役を務めた。社業では1979年三菱自工常務、1983年副社長、1985年会長を務めた。 ​2008年(平成20年)1月30日没

昭和12年卒
​小畑 実

1936年(昭和11年)、広島一中が全国中等学校蹴球選手権大会で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。戦前の慶応義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとしても活躍、また、日本代表として1939年9月、日満華交換大会対満州国戦で先発(Cキャップ)出場した。1949年(昭和24年)東洋工業(現マツダ)へ入社し、同社蹴球部では山崎芳樹監督の下で中心選手として活躍し、同年には実業団チームとして初の日本選手権(現天皇杯)に出場した。1951年(昭和26年)、山崎の後を受けて監督に就任、早いダイレクトパスの交換という慶応のサッカースタイルを東洋工業に植え付けた。選手兼任監督として下村・銭村・樽谷・重松らを擁し、1954年(昭和29年)には実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出する。翌1955年には全日本実業団でも初の決勝に進出、田辺製薬に2-0と敗れたが、翌1956年には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした。1962年には国体でも初優勝を飾っている。同年9月から10月まで、指導者の資格取得のため長沼健、水野隆とともにドイツに留学。1964年(昭和39年)監督を下村に譲って総監督に就任するが、翌1965年(昭和40年)、日本サッカーリーグが始まると、初年度より1968年まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立するなど東洋工業の黄金時代を築いた。 1986年(昭和61年)5月1日没

昭和18年卒
​渡部 英麿

サッカー元日本代表。国学院大学卒業後、実家の邇保姫神社(広島市南区)で神主をしながら似島中学校の教員を勤め、1954年3月に日本が初めて出場したワールドカップ予選にゴールキーパーとして出場。異色のプレーヤーとして名を馳せ、その後に中国電力勤務を経て山陽高校サッカー部監督に就任。1年目の1955年に早くも広島県大会を制して全国高校選手権に初出場し、強豪校に育て上げる。1967年度の選手権で初優勝を果たし、翌年も全国準優勝。教え子からは日本代表クラスを輩出し、指導者としても名声を高めた。晩年も広島県サッカー協会の重鎮として活躍、広島国泰寺高校サッカー部のOB会「鯉城蹴球団会長」を務めた。 2011年(平成23年)10月没

昭和23年卒
​重松 良典

慶應義塾大学在学中、1952年天皇杯での優勝に貢献。卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。高校·大学の先輩小畑実監督のもと、同蹴球部(現サンフレッチェ広島)初期の黄金期を支えた。1958年第3回アジア競技大会で日本代表に初選出され、対香港戦で初キャプテンを務めた。 現役引退後、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)入りし、日本サッカーリーグ(JSL)創設メンバーとして、設立を実現させた。協会在籍時の1968年、藤和不動産サッカー部(現湘南ベルマーレ)の設立メンバーとして携わる。その後、東洋工業に戻り1974年、広島東洋カープ球団代表に就任。在任中、3度のリーグ優勝と2度の日本一とカープの黄金時代をもたらした。1981年から、フジタ工業(現フジタ)に移り、日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグ設立にも関わる。2002年日韓ワールドカップ開催にも尽力。 2018年(平成30年)没

昭和24年卒
​福原 黎三

1949年第27回全国高校サッカー選手権大会で優勝した鯉城高校の中心選手。東京教育大学体育学部卒。大学時代にも関東大学リーグで28年ぶりに優勝、4年次には主将を務めた。埼玉県立浦和高校教諭として同校サッカー部を指導したが、その後帰郷し広島県警察学校講師を経て広島大学付属高等学校教諭、同校サッカー部監督、日本ユース代表監督(1966年)など務めた。  1970年(昭和45年)2月7日没

昭和31年卒
​川西 武彦

サッカー選手。立教大学を卒業後、東洋工業に所属。​日本代表としてワールドカップチリ大会予選など、国際Aマッチ8試合に出場した。​​東洋自販㈱ 会長

昭和38年卒
​水口 洋次

中央大学法学部卒業。ヤンマーディーゼルに入社。同社サッカー部の主力選手として活躍した。入社4年で選手を引退しコーチに就任。日本代表U-20の監督等も歴任した。その後「ヤンマークラブ」に転籍、監督に就任し日本サッカーリーグ2部でチームの指揮をとった。1979年松下電器産業に移籍し、1980年同サッカー部(現ガンバ大阪)の初代監督に就任。以降11年にわたり指揮をとり、1990年には天皇杯優勝に導いた。Jリーグ発足に向けてガンバ大阪取締役強化部長、普及部長、1999年大阪サッカー指導者協会会長に就任。2002年松下電器を定年退職と同時にガンバ大阪取締役を辞任。2004年関西学生サッカーリーグの神戸国際大学サッカー部の監督として復帰、2007年1月~8月までガイナーレ鳥取の監督に就任。 2022年(令和4年)4月10日没

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